『報恩之辞』 読み下し文・現代語訳をご覧ください

(上記写真提供:甚野尚志教授)

このたび、早稲田大学非常勤講師・藤原秀之氏より、『報恩の辞』の読み下し文、並びに現代語訳のご提供をいただきましたので、公開いたします。

今回、このプロジェクトにあたり、藤原先生に現代語訳等を依頼し、提供までを詳細にわたり橋渡ししてくださいましたのは、早稲田大学文学学術院の甚野尚志教授です。

☆ 報恩之辞について ☆

 

【読み下し文】

明治三十六年九月、我が立子山村小学校長朝河先生は、年六十に近き一朝を以て職を辞して去る。

先生、名を正澄、旧(もと)は二本松藩士にして、資質は坦厚、栄利はその心を動かすに足らず、毀誉はその情を乱すこと能わず。

終始一誠を以て、自らを欺かざるを帰と為す。

明治七年、天正寺に学校を創立するに、先生を延(ひ)いて師と為す。

爾来三十年、教えを受くる者一千余人。先生職に当たりて解かず、訓蒙して英を養い、機に随いて奨導す。

事に因りては啓沃し、従容として迫らず。相感じて誠をもって教育し、此れによりて振起す。

年歳の久しく、薫陶の厚く、孝愛友悌にして、一村の村中を弟子とせらるるにより、相語らうに、先生と称するは問わずして朝河先生たるを知り、その父兄もまた先生と称して名をよばず。

蓋し人の徳の深化を人の功の至とするを非が入るとせば、豈に能くかくのごときや。

倩と(つらつらと)今の教員を視れば、口には道を講(と)くと雖も、心には則ちただ利をして是れを規とし、増俸をもって之を邀(むか)える者あらば則ち就く。

故に朝には某校にありて、夕には某校に遷る、それ学校を視れば伝舎の如く、弟子を視れば市の道を以てす。

是れに由りて師弟は親しまず、教導に効無し。

他日、弟子の旧師を視るに同席比肩の友に異ならず、甚しきは則ち、行道の人のごとく、曾て謀面せず、てへり。徳義は地を掃らい偸薄(とうはく)たり。

成風は師の授くるところにして、弟子の受くるところは、果して何の道哉。

三十年間一校に従事せば、師弟の親愛は、我が朝河先生その人のごときたるは鮮やかなり。

今は先生、挂冠(けいかん)して帰郷す。生等留めんと欲するも能わず。

なお寒さに裘を(かわごろも)去り、赤子は怙恃を離れて茫たるか、為す所を知らざるなり。

すなわち相ともに議し、将に遺愛の碑を立て、その功徳を書し、以てわが思いを慰め、以て後の人に俾(ひ)せん。

ここに憲先生之れを聞きて峻拒して許さず。

ここに於いて更に議し、金殻の測時器を一儀として奉呈し、もって微衷を表するも報ゆるに匪(あら)ざるなり。

永く矢(ちか)って諼(わす)れず、書を遂げて以て贈と為す。

生等、稽首再拝す。


 維に明治三十六年九月下浣(げかん)

(早稲田大学非常勤講師・藤原秀之氏作成)

【報恩之辞】読み下し文

 

【現代語訳】

明治36年9月、わが立子山村小学校長の朝河先生は、60歳を間近にしたある朝をもってその職をお辞めになり学校を去ることになりました。

先生は、その名を正澄といい、もとは二本松藩の藩士で、たいへん穏やかな性格で、栄利に心を動かされることや、人の誹りや誉め言葉に心が乱されることもなく、つねに何事も誠意を持って行ない、自らを欺かないことを自身のよりどころとしました。

明治7年、天正寺に学校が創立されると、先生をお招きして校長となっていただきました。
それから30年、教えを受けた者は千人を超えました。
先生は寸暇を惜しんで仕事にあたり、子どもたちを教え諭し、その能力を引き出し、折に触れて導いてくださいました。
事にあたっては心を開いて教え導き、穏やかな気持ちで子供たちに接し、互いに感じあって誠をもって教育にあたってくだったことで、子どもたちは奮い立ちました。

長き年月を経て、薫陶は厚く、教えを受けた者たちは皆仲良く孝養を尽くし、村中の者たちが先生の教え子となったので、互いに話をする時「先生」といえば朝河先生のことだと誰もが思い、教え子ばかりかその父兄たちまでもが、その名を呼ばずにただ「先生」と称したものです。
思うに人の徳を深めることを人の功の極みだとすることが非難されるならば、どうしてこのようなこと(「先生」といえば朝河先生を指すというようなこと)がおきましょうか。

よくよく考えて今どきのほかの教員たちを見れば、口では人の道を説いてはいるけれど、心の中では自らの利益を第一に考え、給料の増額をもって招く者があればそちらに就職します。
それゆえに、朝にはこちらの学校に勤めていたかと思えば、夕方には違う学校に遷ってしまう。

学校はまるで宿場の仮の宿、弟子と言っても市への道で出会う人々のようです。これでは師弟が親しむことはなく、教導の効果もありません。
後になって弟子が先生に会うことがあっても、共に学んだ学友に抱くのと同じ程度の感情を持つくらいでしょうし、はなはだしい場合は、道を行く人と同じように、これまでに会ったことがない、とすら言うことでしょう。
徳義はすっかりすたれてしまい人情は薄くなってしまいます。
立派に育てようという先生の教えが、それを受ける弟子たちにとって、果してどのような道が残るというのでしょう。
30年間同じ学校で教壇に立てば、師弟の親愛は深まり、まさに朝河先生のようになることはあきらかでありましょう。

今、先生は職を辞して故郷に帰ることになりました。思いとどまってほしいと願いましたが、その思いはかないませんでした。
まるで寒さに震える身から厚い皮衣を奪われるような、生まれたばかりの赤子のような身で頼みとするところを離れ、茫然としてしまい、どうしてよいのかわからなくなりました。

そこで皆で話し合い、遺愛の碑を立てて先生の功績を讃える書を遺すことで我々の思いを慰めるとともに、後の人々に伝えようとしました。ここで先生がこのことをお聞きになると、きっぱりと断り、許してはくれませんでした。

そこであらためて皆で話し合い、心ばかりの品として金時計を差し上げることとしましたが、それくらいのことでは私たちの気持ちをあらわすことも、先生から受けた恩に報いることもできません。
せめて永く忘れないために、ここにその思いを書き認めて、お贈りすることとします。

稽首再拝いたします。

 明治三十六年九月下旬

             (早稲田大学非常勤講師・藤原秀之氏作成)

【報恩之辞】現代語訳

 

 

 

 

 

 

 

(10月30日/立子山自然の家で地区住民にレプリカを公開)

 

 

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