立子山の力—朝河貫一と父・正澄

甚野尚志(早稲田大学文学学術院教授)

立子山は、世界的歴史学者・朝河貫一が育った土地であるが、その人間形成にとり父・正澄の教育が決定的であった。

そもそも貫一の父・朝河正澄(旧二本松藩士)は、その学問の素養を見込まれ、明治7年に立子山の小学校長となり、その前年に生まれたばかりの貫一ら家族とともに赴任する。

立子山は養蚕が盛んで繭、生糸、羽二重の特産地であったが、明治維新後は、風紀が乱れ賭博が横行し、村は疲弊していた。

赴任した正澄一家は、小学校が開設された天正寺の中に住むことになる。

正澄は武士としての礼節を守り、常に羽織袴を着用し、端座して容姿を崩さずにいたので村民から「朝河天神」と呼ばれた。

正澄は村民の生活の改善を指導し、村の農業改良にも努めた結果、明治43年には立子山村は優良村として内務大臣から表彰を受けるにいたる。

また、正澄は我が子・貫一の教育にも熱心で、貫一は幼児期から様々な書物を与えられたが、小学校時代にすでに「近古史談」、「日本外史」、「四書五経」などの古典を父の指導で読んでいた。

それだけでなく正澄は貫一に、戊辰戦争での二本松少年隊の奮戦や落城後の苦難を教え、また、正澄の姉・八重の嫁ぎ先(二本松神社の安藤家)の親族である儒学者・安積艮斎の業績も語り聞かせた。

貫一が青年期に友人に宛てて書いた書簡を読むと、彼が若くして卓抜な文才を持っていたことに驚くが、その文才は正澄の教育の賜物といってよい。

また貫一は終生、抜群の英語能力の持ち主であったが、彼の英語への関心も立子山時代に始まる。

彼が英語と出会ったのは、立子山から通った川俣の高等小学校で英語教師・蒲生義一から英語を初めて習ったことによる。

川俣の高等小学校でなぜ当時、英語教育がなされていたかといえば、それは川俣が生糸の産地で、外国人商人との取引を行っていたからにほかならない。

つまり貫一の英語との出会いは福島での養蚕業の発展と深く関係している。

その後、貫一は福島尋常中学でイギリス人の英語教師ハリファックスと出会い、その英語能力に磨きをかけた。

ハリファックスを尋常中学で雇用した理由も、福島での養蚕業の勃興と外国人商人との取引の増大に福島県が対応しようとしたからであった。

貫一が尋常中学校時代に「英英辞典」を食べて暗記した逸話や、卒業式の答辞を英語で述べ、ハリファックスを驚嘆させた逸話は有名である。

貫一は東京専門学校卒業後ダートマス大学に留学するが、その校内雑誌には、「朝河は大学の二年目のクラスに属するが、その英語の語彙能力は他の学生と比べても傑出している」というダートマスの教授の評価が書かれている。

つまり貫一は、渡米した時期にすでにアメリカ人学生をはるかに超える英語の語彙力をもっていたが、この卓抜な英語能力は彼の立子山時代からの勉学に基づいていたのである。

しかし貫一が立子山で身に付けたことはこれだけではない。

何よりも父・正澄を通じて学んだのは、克己の精神であろう。

貫一はアメリカにわたってから、自身の一週間の日課を決め、それに従い日々の生活を送っていた。

日記に書かれた日課をみると、貫一は月曜から土曜まで一日約10時間を研究のために費やしていた。

日曜のみが自由な読書と手紙を書く日であった。彼の克己の精神は「朝河天神」と呼ばれた父・正澄から学んだものであろう。

正澄は約30年間立子山小学校に奉職し、明治36年に退職するが、退職時に村民から「報恩の辞」と題された巻物を送られた。

そこには、正澄がいかに身を粉にして村のために尽力したかについて感謝が述べられている。

正澄が立子山で行った村のための尽力は、まさに正澄が仕えた二本松藩の「戒石銘」の精神の実現ともいえる。

「戒石銘」は藩士への戒めとして二本松城の入り口の石に刻まれたものであるが、そこでは「下民は虐げ易きも上天は欺き難し」と書かれている。
これは、下々の民をいたわることが武士の務めであるという戒めである。貫一は軍部の独裁へと向かう日本に対し書簡を通じて痛烈な批判を行ったが、そこに正澄から学んだであろう「戒石銘」の精神を見て取ることができるかもしれない。

朝河貫一博士の歩み

年次 出来事
西暦 年月
1873 明治6年12月 12月20日朝河家の長男として誕生(現二本松市)
父正澄、母ウタ
1874 7年8月 正澄が伊達郡立子山村(現福島市立子山)の小学校長として赴任、一家で同村天正寺に移り住む
1876 9年1月 1月19日母ウタ死去
1877 10年6月 立子山小学校の改築により天正寺から同校宿舎に移り住む
正澄はヱヒと再婚
1879 12年5月 立子山小学校入学
1886 19年 川俣高等小学校に転校(現川俣町川俣小学校)
1887    20年4月 福島県尋常中学校(福島市)入学
1889    22年3月 尋常中学校が安積郡桑野村(現郡山市)に移転  のちに安積中学校と改称(現安積高校)
1892 25年3月 尋常中学校を首席で卒業
25年11月 東京専門学校(現早稲田大学)文学科に入学
1895 28年7月 東京専門学校首席で卒業
1896 29年1月 ダートマス大学入学
1899 32年6月 ダートマス大学卒業 9月イェール大学大学院入学
1903 36年7月 継母ヱヒ死去 10月父正澄退職し二本松町(現二本松市)に転居
1905 38年10月 ミリアム・ディングウォール(26歳)と結婚
1906 39年2月 第1回帰国(横浜港で父とは10年ぶりに対面)
39年9月 9月20日父正澄急死(腸捻転)
1913 大正2年2月 妻ミリアム(33歳)死去
1917 6年7月 第2回帰国
1927 昭和2年7月 イェール大学院歴史学助教授に任命
1929 4年5月 入来文書完成発行
1930 5年7月 歴史学准教授に昇進
1937 12年7月 歴史学教授に昇進
1939 14年10月 ヒトラーの自殺を予言
1941 16年1月 日独伊三国の敗北を予言
16年11月 昭和天皇宛ルーズベルト大統領親書案完成  ハーバード大学ラングドン・ウォーナーに託す
16年12月 12月8日未明大統領親書昭和天皇のもとへ(日本軍による真珠湾攻撃が開始された後であった)
1945 20年8月 広島、長崎原爆投下 8月15日アジア・太平洋戦争終結
1948 23年8月 8月11日 朝河博士バーモント州ウエスト・ワーズボロの山荘で心臓発作のため死去(74歳

 

朝河貫一博士についての2020年 記念講演会(甚野尚志教授) 


基調講演「正澄から貫一へ~朝河博士が父から学んだもの~」

講演者:早稲田大学文学学術院教授 甚野尚志教授

日 時:令和2年10月24日

会 場:福島市立立子山小学校

2020年10月24日・立子山講演(甚野尚志教授提供)前編

2020年10月24日・立子山講演(甚野尚志教授提供)後編

 

朝河博士について学ぶ講演会 in 福島県立図書館(甚野尚志教授) 


講 演「朝河貫一と父・正澄-『報恩之辞』にみる立子山の教育~」

講演者:早稲田大学文学学術院教授 甚野尚志教授

日 時:令和3年11月28日

会 場:福島県立図書館

 

講演資料 前編】2021年11月28日・福島県立図書館(甚野教授提供)

【講演資料 中編】2021年11月28日・福島県立図書館(甚野教授提供)

【講演資料 後編】2021年11月28日・福島県立図書館(甚野教授提供)

 

2022年記念講演会 in 福島市立子山(甚野尚志教授) 


講 演「正澄から貫一へ『今、報恩之辞に学ぶ』」

講演者:早稲田大学文学学術院教授 甚野尚志教授

日 時:令和4年10月22日

会 場:旧福島市立立子山中学校体育館

 

☆甚野教授 講演映像(抜粋/2分54秒)☆

 

 

 

解説『報 恩 之 辞』 

『 報 恩 之 辞 』(イェール大学スターリング記念図書館蔵/撮影:甚野尚志)

(解説/甚野尚志)

朝河正澄は1874年(明治7年)から立子山小学校の校長として立子山村の子供たちの教育に尽力し、1903年(明治36年)10月に退職した。
退職後の10月20日には朝河校長送別会が開催され、約1300人の立子山村民が参加した。

その際、立子山村民から記念品(金側懐中時計)とその拠金者853名の名簿である『報恩之辞』が贈呈された。

『報恩之辞』は、正澄の没後は貫一が所持していたため、現在イェール大学スターリング記念図書館の「朝河貫一資料(Asakawa Papers)の中にある。





 

 

 

 

 

 

【報恩之辞】書き下し文&現代語訳

 

書幅・手記 (撮影:甚野尚志)

貫一が1895年夏に立子山で書いた恋愛の手記

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

渡米を決意した貫一が、安藤ふく宛に送った決別の書簡(1895年9月4日付)

左:最初の部分(スマートフォンでご覧の場合は上)
右:最後の

部分(スマートフォンでご覧の場合は下)

 

 

 

 

 

 

朝河正澄の書幅

 

 

 

 

 

 

 

 

解説『大統領親書草案』

朝河貫一と「天皇宛大統領親書草案」 (解説/甚野尚志教授)

 

1941年(昭和16年)12月8日に日本は米英に対し宣戦布告し、太平洋戦争が始まった。

12月8日未明に日本海軍が真珠湾を奇襲した後で、宣戦布告がアメリカのルーズベルト大統領のもとに届いたことから、アメリカ人の敵国日本に対する報復の感情は一気に高まり、多くのアメリカの日系人が強制収容所に入れられることになる。

一方、開戦直前の時期、イェール大学教授であった朝河貫一は、枢密顧問官の金子堅太郎など天皇の側近に対し書簡を送り、軍部独裁の政治体制の変革を求め、このまま大陸への侵略政策を進めればアメリカとの戦争になり、日本の破滅へと至ると一貫して警告していた。

1941年11月中旬、日米交渉が行き詰まり、日米開戦がほぼ不可避の状況になったとき、朝河はハーヴァード大学の日本美術史教授ラングドン・ウォーナーと協力し、ルーズベルト大統領から天皇宛に親書を送ることで天皇に開戦の決断を思いとどまらせる案を考えた。

朝河が英文で、大統領から昭和天皇宛の親書草案を書き、11月27日から28日にかけてウォーナーがそれを携えてホワイトハウスや国務省などのアメリカ政府の要人に回覧している。この朝河の親書草案は、日本が大化改新や明治維新のような危機に際して天皇を中心に乗り越えたことに触れ、またペリー来航以来の日米の友好的な関係の歴史を説き、そのような歴史を見れば、現在の危機を天皇の力により乗り越えることは難しいことではないと述べるものであった。

しかし、この朝河の親書草案はそのまま生かされることはなく、ルーズベルト大統領が開戦の日に天皇宛に出した親書は、日本軍の南部仏印領からの撤退を求めるなど厳しい内容であった。

仮に朝河の「親書草案」がそのままの形で大統領から天皇宛に送られたとしても、当時の状況から、開戦はほぼ不可避であっただろう。

しかし、朝河が行った親書による開戦阻止の試みは、日本が無謀な戦争に突入しないために、最後のかすかな希望を賭けた行動であった。

太平洋戦争が現実味を帯びてきたとき、日本では治安維持法により政府批判の言論活動は完全に封殺されていたから、日本の軍部独裁を批判する書簡を政府の要人に書くことができたのはアメリカにいた朝河貫一のみであった。

太平洋戦争の開戦に対し、最後まで反対した日本人がいたことを忘れてはならない。

(参考文献、阿部善雄『最後の「日本人」―朝河貫一の生涯―』岩波書店、2004年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

朝河博士が記した「大統領親書草案」(控)=県立図書館所蔵=

 



福島県立図書館『朝河貫一博士資料』(外部リンク/PCサイト)

 

朝河貫一博士・幼い頃の落書き

立子山小学校は、明治7年(1874年)8月25日、天正寺客殿を借り受け開設しました。

客殿前には、現在記念碑が建立されてます。

天正寺(曹洞宗寺院=福島市立子山字寺窪)には、朝河貫一博士が幼い頃落書きした馬の絵があります。

父・正澄が立子山小学校の初代校長として奉職したのち、4歳頃に成長した貫一博士が毛筆で本堂の白壁に落書きしたものです。

平成27年4月に天正寺は改築されましたが、落書きされた白壁は、今も大切に保管されています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天正寺(立子山)所蔵

 

 

早稲田大学文学研究科紀要 第66輯

早稲田歴史館『海をわたったサムライ・朝河貫一展』解説書(提供:甚野尚志)

早稲田大学文学研究科紀要 第66輯

 

 

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