解説『大統領親書草案』 

朝河貫一と「天皇宛大統領親書草案」 (解説/甚野尚志教授)

 

1941年(昭和16年)12月8日に日本は米英に対し宣戦布告し、太平洋戦争が始まった。

12月8日未明に日本海軍が真珠湾を奇襲した後で、宣戦布告がアメリカのルーズベルト大統領のもとに届いたことから、アメリカ人の敵国日本に対する報復の感情は一気に高まり、多くのアメリカの日系人が強制収容所に入れられることになる。

一方、開戦直前の時期、イェール大学教授であった朝河貫一は、枢密顧問官の金子堅太郎など天皇の側近に対し書簡を送り、軍部独裁の政治体制の変革を求め、このまま大陸への侵略政策を進めればアメリカとの戦争になり、日本の破滅へと至ると一貫して警告していた。

1941年11月中旬、日米交渉が行き詰まり、日米開戦がほぼ不可避の状況になったとき、朝河はハーヴァード大学の日本美術史教授ラングドン・ウォーナーと協力し、ルーズベルト大統領から天皇宛に親書を送ることで天皇に開戦の決断を思いとどまらせる案を考えた。

朝河が英文で、大統領から昭和天皇宛の親書草案を書き、11月27日から28日にかけてウォーナーがそれを携えてホワイトハウスや国務省などのアメリカ政府の要人に回覧している。この朝河の親書草案は、日本が大化改新や明治維新のような危機に際して天皇を中心に乗り越えたことに触れ、またペリー来航以来の日米の友好的な関係の歴史を説き、そのような歴史を見れば、現在の危機を天皇の力により乗り越えることは難しいことではないと述べるものであった。

しかし、この朝河の親書草案はそのまま生かされることはなく、ルーズベルト大統領が開戦の日に天皇宛に出した親書は、日本軍の南部仏印領からの撤退を求めるなど厳しい内容であった。

仮に朝河の「親書草案」がそのままの形で大統領から天皇宛に送られたとしても、当時の状況から、開戦はほぼ不可避であっただろう。

しかし、朝河が行った親書による開戦阻止の試みは、日本が無謀な戦争に突入しないために、最後のかすかな希望を賭けた行動であった。

太平洋戦争が現実味を帯びてきたとき、日本では治安維持法により政府批判の言論活動は完全に封殺されていたから、日本の軍部独裁を批判する書簡を政府の要人に書くことができたのはアメリカにいた朝河貫一のみであった。

太平洋戦争の開戦に対し、最後まで反対した日本人がいたことを忘れてはならない。

(参考文献、阿部善雄『最後の「日本人」―朝河貫一の生涯―』岩波書店、2004年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

朝河博士が記した「大統領親書草案」(控)=県立図書館所蔵=

 



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